ジェーン・アダムズ

みなさんはジェーン・アダムズという女性をご存知でしょうか。

ジェーンはアメリカ人女性初のノーベル平和賞(1931年)を受賞された方です。

シカゴにセツルメント「ハルハウス」を設立したことで有名です。

それ以外にも第一次世界大戦では「平和を願う女性の会」を結成し、戦争を止めるよう働きかけました。

また戦争後は、戦争で荒れ果てた地の人々を訪問し、資金を集め飢えた子どもたちに食料を送りました。

しかし、国外の人を支援したことで「アメリカで最も危険な女性」と非難されます。

それでも最後まで「誰かを助けること」に生涯を捧げ、ノーベル平和賞を受賞されたのです。

そんなジェーンの生き方を少しばかり紹介します。

幼少期~人の痛みに敏感な人

世の中には「人の痛みに敏感な人たち」がいます。

ジェーンもきっとそうだったと思います。

人の痛みに敏感な人たちは社会や福祉を支えてきたのです。

ジェーンの生い立ちを少し辿ってみます。

幼少期

ジェーンは2歳で母親を亡くし、寂しい幼少期を過ごしました。

そして4歳には脊椎カリエスの病にかかり、

背中が曲がって、つまさきは内側を向き、みんなと違う身体になります。

そんなジェーンには友達はいなかったですが、優しい父がいつもそばにいました。

父は母を失い病にかかった我が子にたくさんの愛情を注いだのです。

貧困地区の光景

そしてジェーンが5歳のとき、父と一緒に貧困地区を通ります。

そこで目にした光景は、家もない、食べ物もない、悲しみにあふれた光景でした。

人の寂しさや、辛さを、身をもって知っているジェーンは

「いつか大きな家を買って貧しい人たちと一緒に暮らす」と5歳ながら宣言したそうです。

ハスハウス設立~トインビーホールを訪れて

トインビーホール

当時イギリスでは「世界の工場」と呼ばれておりました。

しかしその背景には新救貧法の扱いを恐れ、低賃金な労働・生活を余儀なくされる人たちで溢れておりました。

新救貧法は、貧困になった人を救済する法律でありながらも、その実態は貧困者を怠惰の視点を持って施設収容において排除する経済政策よりの法律だったのです。

後にブースの貧困調査で明らかになるのですが、貧困の原因は「雇用問題」でありました。貧困は個人の問題だけではなく世界の工場を背景とした大きな社会問題だったのです。

そして1883年に「見棄てられたロンドンの悲痛な叫び」という匿名のパンフレットが瞬く間に反響を呼び、社会活動の動きが活発になります。

その流れを受けて1885年に世界初のセツルメントである「トインビーホール」がバーネット夫妻をはじめ多くの方の運動により設立されました。

トインビーホールは宗教を背景とした人たちや学生を中心に、貧困地区に実際に住み込み、共に生活していく中で、経験を分かち合う共同体の形を目指しました。そこではパーティーや講義、ダンスや音楽などが行われたのです。

ハルハウス

そんなトインビーホールには世界中の人たちが訪れました。社会福祉を切り開いてきた方々にも大きな影響を与えました。ウェッブ夫妻やブース、ベヴァリッジ、そしてジェーンもそのうちの一人でした。

「困っている人を助ける」という幼少期からの夢を叶えるためにイギリスからアメリカへ帰国しました。

ジェーンはシカゴの貧困地区の近くに大きな家をみつけました。

しかしその家はとても古く窓ガラスも割れてボロボロな家でした。

そこで町中の女性に寄付をお願いし建物を修繕「ハルハウス」が開設されたのです。

ハルハウスでジェーンは寝る間もなく働き、必要なものは何でも揃えました。

その中でも大切にしたことは

一人ひとりに寄り添い、友人となり、夢を持てるよう励ますことだったようです。

またハルハウスには、アメリカのみならず、ドイツやイタリア、ポーランド、ギリシャ、ロシアなどなど世界中の人が集まってきました。それぞれの文化や価値が異なる中、対話による平和的な解決をもとに仲良く暮らしたそうです。

そんなジェーンにはルーズベルト大統領から感謝の手紙が送られました。そして次期大統領になればよいなど周囲から声が上がるほど、心優しいジェーンは周囲から認められ大切にされていたのです。

第一次世界大戦期の運動~危険なジェーン

第一次世界大戦

1914年7月28日に第一次世界大戦がヨーロッパで始まってしまいました。

戦争を止めるためにはいったい何ができるだろうか

すぐさまジェーンは考え行動しました。

ジェーンはアメリカ中の女性を集めて、「平和を願う女性の会」を立ち上げ、戦争を止めるために動きました。

ジェーンらの活動は瞬く間に世界に広がり、オランダで12か国1500人の女性が集まり「国際女性会議」が開かれました。ジェーンはリーダーとして、ヨーロッパ各国をまわり、国際女性会議でまとめた「平和への20の決意」をもって各国の指導者に伝えることを続けました。

ジェーンはハルハウスでの経験から、一番大切なのは相手の話に耳を傾けることであることを伝え、戦争を止めるために「一人ひとりに」伝えることを続けました。

後半はアメリカも戦争に参入する事態も起きましたが、1918年に戦争がやっと終わりました。

終戦後

戦争が終わるとすぐさまジェーンは動きました。

海外の戦争で荒れ果てた国を訪れ、資金を集め飢えた子どもたちに食糧を送り、WILPE(婦人国際自由連盟)を設立し初代会長にもなりました。

しかしそんなジェーンがアメリカに戻ると

功績を讃えるどころか、他国を助けたことで多大な非難を浴びました。

そしてFBIは「アメリカで最も危険な女性」と呼び、国内中で悪い噂が飛び交いました。

それでもジェーンは困っている人を助けることを続けました。

小さなことを一つ一つ積み重ねていくことで

1931年にジェーンはアメリカ人女性初のノーベル平和賞を受賞したのです。

そして1935年5月21日にシカゴにて74歳の生涯を終えるまで

ひたすらに困っている人を助けることを積み重ねていったのです。

まとめ

いかがだったでしょうか。このようにジェーンは、

・幼少期の境遇や体験から困っている人を助けることを夢に秘める。

・トインビーホールとの出会いからハルハウスを設立する。

・第一次世界大戦期には戦争を止めるために、仲間を集め世界へ働きかける。

・終戦後は戦争によって荒れ果てた地に住む人のもとへ飛び立ち、一方で国内から避難を浴びる。

・その後もひたすらに困っている人のもとへ出向き、ノーベル平和賞を受賞される。

ジェーンの生涯は教科書には書かれていない多くのことを教えてくれます。

誰かの何かのヒントになることがあれば幸いです。

以上長くなりましたがジェーンに関する紹介記事とさせていただきました。

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また次回もどうぞよろしくお願いします。

〇参考文献

「危険なジェーンと呼ばれても」 岩崎書店

これは絵本になります。子どもから大人までの幅広い方に向けて、教育や啓発の題材としても非常に優れております。また巻末にはジェーンの写真や年表などが掲載されております。

追記

こちら英語ではありますが紹介動画です。

字幕は英語や日本語設定にもできます。

写真もいくつか出てきますので、良かったらご覧になってみてはいかがでしょうか。

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