石井十次から学ぶ

石井十次とは

今から100年以上前になります。

まだ社会福祉などという言葉もない時代に、1000人をも超える孤児を受け入れる民間施設がありました。それが岡山孤児院です。

創設者の石井十次(以下~十次)は22歳で一人の男児を預かること以来、孤児救済と教育に生涯を捧げました。

そんな十次の生き方は、現代を生きる私たちへ「人間が人間らしく生きていくこと」についてのヒントを教えてくれるような気がします。

十次の人柄を表すときに幼少期の逸話として「縄の帯」の話があります。

縄の帯

村の鎮守の祭りで、貧しい家庭の友達が、帯の替わりに縄を巻いていていじめられているのを見て、母親手づくりの自分の帯を、その子に与え、自らは縄を締めて帰った。母親にしかられるかと思ったら「よいことをした」と褒められた。

岡山孤児院物語ー石井十次の足跡 横田賢一 山陽新聞社P17より

このように十次には人の痛みや悲しみを敏感に感じ取り、手を差し伸べることまでできるという気質や人柄がありました。そんな十次の気質や人柄に多くの人たちが魅かれ、孤児救済に生涯を捧げる道を多くの仲間と共に歩んでいったのです。

十次について5分ほどの紹介動画になります。

このように十次の人間としての生き方は実業家の大原孫三郎に大きな影響を与えたように、現代に生きる私たちにとっても何か気づきを与えてくれることでしょう。以下動画には書かれていないことを少し簡単にまとめていきながら、十次についてもう少しみていきます。

岡山という地

岡山市東区上阿知にある大師堂、ここが岡山孤児院発祥の地となります。

医師を目指していた十次は医師修行の途中に、この地で出張診療所の代診を頼まれ引き受けます。当時十次は自ら「脳病」という激しい頭痛や精神錯乱の発作に悩まされており、転地療養の意味もあったようです。

この大師堂は、弘法大使・空海を祭るものであり、建物は貧しい遍路や家のない人らが雨風をしのぐ場所にも使われておりました。十次は毎朝そこを訪ねては食べ物を与えたりしていたそうです。そしてある朝、女性遍路と2人の子どもと運命の出会いを迎えるのです。

その後5か月ほど経ってから、岡山市中区の門田屋敷にある三友寺の一画を借りて、「孤児教育院」をはじめました。この世で最も哀れむべきは貧困により父母の手を離れた孤児で、それを救って教育をすることがすなわち国家のためであるという「孤児教育会趣旨書」を掲げ、十次は自らも入信しているキリスト教関係者へ協力を仰ぎました。

事業のほとんどを寄付で賄っていた十次は多くをキリスト教関係者から支援を受けておりました。実はこの岡山という地がキリスト教伝導の先駆地でもあったのです。

少し時間を戻しますと、当時200年以上にもわたる徳川の禁制(鎖国)が解かれ、アメリカの宣教師が使命感をもって来日してくることがありました。そのエネルギーは凄まじいものであったに違いありません。

岡山県では中川横太郎が宣教師であるW・テイラーの来岡を斡旋したことを契機に、後に十次が入学する岡山県医学校の設立を含む数々のキリスト教布教に貢献しておりました。

ある時アメリカ最古の伝導団体である「アメリカン・ボード」が近畿地方に拠点を置いており西部への進出を目指しておりました。そこで偶然宣教師が神戸で中川と出会い、その後岡山ステーションの誕生へとつながっていくのです。このように中川横太郎という人物が岡山という地にキリスト教を広げていったことが後の十次にも影響を与えていくことになります。

協力者たち

十次はある朝「天啓を感じた」と医学書をすべて焼き払います。二人の主に仕えることはできないというキリスト教の教えも背景にあり、医師になる道を絶ち、孤児救済に生涯を捧げることを決意したのです。この年はちょうど明治憲法が発布された年でした。

孤児院の運営は後援団体「孤児教育会」の会費と臨時の寄付金が主でした。会員はキリスト教関係を中心にまもなく1000を超えるまでにもなったようです。中でも阿部磯雄という人物は十次の重要な支援者でした。基督教新聞に岡山孤児院という名前を使って紹介をすることで、県外にいるキリスト教関係者にその存在を知らせたことで多くの協力を得ることにつながりました。

安部が紹介した基督教新聞にこんな逸話が掲載されたようです。

いよいよ米、麦尽きて、夕食はおかゆに頼らざるを得なくなった。創設以来初めてのことだった。十次は孤児らに詫び、自らは一切口に入れなかった。三友寺本堂裏に墓場があった。十次はここを祈祷所にしていた。その夜も孤児二十人ほどを伴って、「熱祷」した。終えて引き上げると有力支援者であるジェイムス・ペティーの妻が、米国からの寄付金三十一円を携えて来ていた。米十キロが五十銭前後の時代である。大金であった。

岡山孤児院物語ー石井十次の足跡 横田賢一 山陽新聞社P30より

このように十次の事業は寄付金を中心にキリスト教関係者に支えられていたものが多く、これは十次のみならずこの時代の慈善事業を展開する篤志家たちにも共通するものであったようです。日清・日露戦争と続いていく日本において国家予算の半分は軍事費でした。当然社会的弱者に目を向ける余裕もなく、民間の手にゆだねられるしかなかったのです。

その一方でこの時代は今の制度の源泉となる社会福祉事業が次々と生まれてくるのです。

濃尾大地震の発生

1891年に愛知岐阜地方を襲った大地震がありました。

十次は東洋救世軍を名乗り、職員を現地派遣することや募金活動を行いました。2か月で900円を超える金額を集めたとのことです。当時警察の初任給は8円ほどの時代でした。

被害孤児の受け入れも行ったのですが、被災地では「耶蘇教徒」とののしられることが広まりました。そこで十次は名古屋に2年間震災孤児院を設け、現地に救済の実態を見せることで理解を得たということです。

震災後の94年1月、岡山孤児院は震災前より100人増で263人となりました。

またこのときの東洋救世軍にはエピソードがありまして、実は山室軍平が学生として震災救援に参加していました。後に山室軍平は十次から「イギリスから救世軍の一隊が東京に上陸して集会を持ったりしている。自分が行って司令官に会いたいが、孤児院が忙しいので代わりを」と頼まれたそうです。そうした縁から山室軍平は後に日本救世軍の創始者となり、生涯運動にその身を捧げ歴史に名を残したのです。

アリス・ペティー・アダムス

実は濃尾大地震が発生した年に、十次にとって極めて重要人物であるアリス・ペティー・アダムス(以下アダムス)が来岡しました。アダムスはアメリカン・ボードの宣教師でジェイムス・ペティーのいとこでした。ジェイムス・ペティーは震災での充実の活躍ぶりをアメリカのキリスト教機関紙やメディアに伝え、多くの寄付金を集めることに貢献していた重要人物になります。

アダムスは日曜日に岡山基督教会が設けていた伝導所に徒歩で通っておりました。その道には貧しい人々が暮らす地域もあったとのことでアダムスは必ずそこを通っておりました。しかし一般の人にとって外国人はなじみがなく、驚くばかりか石を投げられたりすることもあったようです。それでも道を変えず、さらにはそこの子ども達に外国から取り寄せた絵入りの絵本などを渡し親交を図りました。

その年のクリスマスには子ども達を自宅に招いてパーティーを開いたり、その後子どもたちのために私立の小学校を開設したりしました。そして岡山に先駆的な都市型セツルメントを手掛け、後に財団法人・岡山博愛会となりました。また、このアダムスの事業は十次の事業の近隣で行われ、岡山は孤児と貧児を対象とした社会事業が並立して取り組まれるという歴史的運命があったようです。

まとめ

このように十次は岡山という運命の地で、多くの出会いのもと岡山孤児院の名を日本、世界へと広めていきました。運営は寄付金頼りという形でありましたが、それでも十次は自活の道を考えておりました。

そうしてやがてルソーの「エミール」に影響を受け、子どもと自然を大切にし、故郷の宮崎県の茶臼原を開墾する決断をしました。1994年4月に年長孤児を宮崎に派遣し、宮崎の地で新たな展開を迎えるのです。

つづく 

参考文献:岡山孤児院物語ー石井十次の足跡 横田賢一 山陽新聞社 Ⅰ孤児救済の道へ

石井十次関連のHPリンク

社会福祉法人石井記念友愛社 http://www.yuuaisya.jp/

石井十次の軌跡 https://www.city.okayama.jp/museum/ishii-juji/menu.html

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